跳ねる音に恋をした

雨森 透人

 

 地面や壁、屋根に叩きつけられている雨音を聴くことは、和泉の中では雨を楽しむ方法の一つとなっている。雨脚の強弱は音の変化となって表れるし、そこを通る人、物の立てる音もいつもとは違う。雨なんて鬱陶しいという人がいることも知っているのだけれど、ずっと遠く、どこか知らない場所から旅を続けてきた水が地上へ帰る手段なのだ。そう考えると、彼らが立てるその音は何を奏でているのかと、夢は広がる。歓喜なのか、恐怖なのか、哀愁なのか、惜別なのか。

 今、ないているのはどこで生まれた子なのだろうか。

 そんなことを考えてしまうのは、一人暮らしを始めてから初めての雨の日だからなのかもしれなかった。いつもならば聞こえてきてしまう周囲の生活音は、全てが雨音によって叩き落とされている。実家にいた頃は家族の生活音ならば届いていたというのに、和泉の目の前には数歩で辿り着いてしまう位置にある全ての生活エリアと、自分以外に誰もいない部屋の中だ。何となく憧れていた大学生、一人暮らしだというのに、薄暗い空気のせいで目をそらしていた筈の寂しさが刺激されてしまっているのかもしれない。

 部屋が湿気るからやめてと母には何度も注意をされていたのだけれど、一人暮らしをしている今、和泉の行動を止めようとするものは何もない。窓を開けると同時に吹き込んでくるのは、冷やされた風。けれどもそれは爽やかとは言い難く、どこか身体に纏わり付くような重さもある。今夜は雷雨にご注意ください、と語りかけてくる煩わしい音源は消してしまって、和泉は定位置と化したベッドの上へと戻った。

 一人暮らしの大学生向けにと整えられたアパートは、良くも悪くも部屋が狭い。椅子をわざわざ置く気にもなれず、結果としてベッドの上が定位置となってしまう人間は多いだろう。壁に背を預けてしまえば椅子との差異なんて無いに等しく、眠りたくなればそのまま横になってしまえばいい。自堕落な習慣に足を踏み入れかけている自覚はあったが、一人暮らしの大学生ならば誰もが通る道なんだよ、と心の中で実家の母へと言い訳を送る。勿論、返事はない。実際には届いていないのだから当然のことだが、こういったことは、気持ちの問題なのだ。

 窓を開け、ベッドの上で居心地の良い体勢におさまった和泉が手を伸ばしたのは、これまでに撮影した写真を収めたアルバムだった。元々、和泉の趣味は写真撮影。新たな生活の中で撮影した作品の中でも、出来の良いものは近況報告も兼ねて実家へと送っている。これがまた評判が良い。どうやら近所の人たちにも見せているらしく、あの写真は反応が良かった、なんてコメントが届くと、俄然、撮影にも力が入る。今夜もカメラを片手に撮影散歩を敢行しようとしていたのだが、雨のせいで計画は一時保留となってしまった。アルバムを開いたのは、過去にどのような写真を撮っているのか、どのような場所を撮っているのか、その確認のためだった。

 三叉路の一方に立ち、分かれ道とその間の建物。

 小さな子が公園でブランコを漕いでいる姿。

 水たまりの上を歩く、犬の足下。

 遅刻しそうになりながらも撮影した水滴を纏うフェンスの姿は、ここ最近の作品の中でもお気に入りの一枚となっている。その向こう側は小さな庭園になっていて、きっと、管理人が花々へ水撒きを行った直後のことだった。青空の下、日光を受けてきらきらと輝く宝玉でめかしこんだそれは、道行く人の多くにとっては「ただの金網」でしかなかった。それでも、和泉はその煌めきに目を奪われてしまったから。だから、その瞬間を切り取ったのだ。

 周囲の状況はいつだって途切れることなく変化を続けていて、時折、心に響いた風景を切り取って時間を止めてしまうことができるのが写真というものだ。和泉が心躍らせた水滴の煌めきも、講義が終わって帰宅する頃には影も形もなくなっていた。それが姿を消してしまうまでに、何人がそこに目を向けただろうか。自分一人だけであってほしいような、もっと多くの人に響いてほしいような。相反する感情に折り合いをつけられないままに、和泉はその写真をアルバムの中に閉じ込めてしまっている。

 ざあぁあ、という音が大きくなった。何気なく目を向けてはみるものの、雨粒は見えない。ただ、水のにおいは強くなったような気がした。雨音なのか、水のにおいなのか、それともどちらか一方ではないのか、はたまたどちらも無関係なのか。自分でも理由はわからないが、和泉は雨の日が好きだった。正解なんて、どうでも良かった。ただ、雨音と水のにおいが自分を包み込んでいる感覚が、今は好きだった。

「・・・・・・ちょっと、出てみようかな」

 誰に聞かせるわけでもないが、言葉にしてみる。愛用のカメラは、ほんの少しだけ奮発をして防水のもの。傘を差しながらでは撮りにくいだろうが、その辺りは仕方がないと諦めるしかない。念のために今後の天気予報を確認してみるが、警報が発令されるほどの大雨にはなりそうになかった。現時点で注意報が出ていることには、気がつかなかったふりをする。

 必要になってからでは遅いからと、実家から持ち込んだ荷物の中には長靴が入っている。お気に入りの赤い傘を引っ張り出してきて、仕舞ってしまおうか悩んでいた薄手のコートを羽織っておく。どうせ、クリーニングに出すのだ。レインコートの代わりに、今季最後の仕事をしてもらおう。

 簡単に部屋を片付け、身なりを整える。実家で生活している頃には、あり得なかった時間からの外出だ。それでも、雨が和泉を呼んでいるから。本当は、ずっと外に出てみたかった。大きく叫びながら地上へ帰ってくる彼らの姿を、写真に収めてみたかった。

「じゃあ、行ってきます」

 行ってらっしゃい、気をつけて。

 そんな言葉が返ってくるわけでもないのに、身体に馴染んだ習慣はそう簡単には抜けてくれない。見送ってくれる母の声を思い出しながら、和泉は夜の町へと足を踏み出した。まだ出会ったことのない一枚を、迎えに行くために。

 

 ぱたぱた、と雨音。ばしゃばしゃ、と水音。

 雨の降る夜に外へ飛び出す奇特な人間は、少なくともこの近辺では和泉くらいであるらしい。眩しいほどの電灯に照らされながら、道を歩いているのは和泉だけである。不安がないとは言わない。けれど、それと同等かそれ以上に、期待がある。実家にいる時には叶わなかったであろう散策なのだ。目に映る全てを切り取ってしまいたいほどに、夢は広がっている。

 濡れた木々を撮ろうか。それとも、水たまりに打ち付ける雨を撮ろうか。日々の疲れを洗い流されているガードレールも面白そうだ。撮りたい物が定まらず、必然的にそれは行方が定まらないことも意味している。それでも構わなかった。心に響く何かとの出会いは、和泉の思い通りに進むものではない。適当に歩き回っていたとしても、時が来たならば自然とそれは訪れる、というのが和泉の持論であったから。行き当たりばったりだ、などと他人は言うのだけれど。

 どこか楽しそうに足下の水を跳ね上げて歩くその姿は、何も知らない人間が目にしたならば少し不気味であったかもしれない。見慣れない景色に心を躍らせ、それに比例して足取りも軽く。せわしなく目を走らせて被写体を探す和泉は、いつもと変わらずソレが視界の端に映り込むのを見た。

 くるり、くるり。回りながら歩く和泉の周囲を、ひらり、ひらり。揺らめく赤いそれ。いつの頃からか、共に在るようになったそれが何であるのか、和泉はその答えを知らない。ただ、自分に害をなす存在ではなさそうだということ、そして時折、自らの写真に写り込んでいることだけを知っていた。それだけで十分だった。少なくとも、今はまだ。

 いつだったか、その赤色を映すことのできた人に言われたことがある。それはとても美しい。どんな姿をしているのか、教えてあげようか、と。けれど、それはとても勿体ないことだと思ったのだ。自分の手には、カメラがある。美しい瞬間を切り取るための道具が。いつか、自分の手でその姿を、美しいのだという姿を捉えてみたかった。未だにそれが叶っていないのは、和泉の技量以上に相手の行動が原因だろう。その人は一つだけ教えてくれていた。その存在は、とても恥ずかしがり屋なのだということだけ。

 揺らめく赤色の様子から、きっと魚の形をした何かなのだろうということだけはぼんやりと感じていた。今夜のように雨の中へ出てみたならば、その姿を目にすることができるかもしれない。その予想は外れていなかったらしい。

 赤色の見えた方向へ、身体を向ける。ゆらり、くるり、ゆらり。和泉が向きを変えると、それはするりと和泉の視界から逃げる。行き先を定めないまま、強いて言うならばその赤色との出会いを探して、和泉は歩く。大通りを抜け、住宅街を抜け、公園を抜け、慣れた道も、初めての道も、全てが雨の中で混ざり合っている。自分がどこにいるのかも曖昧だ。ただ、和泉の心はその瞬間を今か今かと待っている。

 時間帯と天候のおかげか、奇妙な行動をとる和泉の姿を目にした人間は誰もいなかった。少なくとも和泉が認識している限りは、という注釈が必要となってしまうのだが、その点には目を瞑っておく。執拗に赤色を追いかけることを止め、同時に足を止めることとした和泉はそこでようやく周囲に目を向けた。

 そこは、どこにでもある住宅街の一角だった。家と家とが建ち並び、そしてできあがった十字路。そこに設置された電灯は、誰かが通るその瞬間のためだけに絶えず明かりを灯し続けているに違いなかった。いっそ眩しすぎるほどの光に、目がくらむ。流石に無許可で他人の家を被写体とするわけにもいかず、ここでの撮影は諦めるか、と和泉が考えた矢先のことだった。

 水溜まりに、赤色。

 映り込んでいると言うよりは、潜り込んでいると言った方が正しいだろう。悠々と水溜まりの中を泳ぐ、一匹の姿がそこにはあった。和泉の目の前にある空間は電灯が強すぎるほどにスポットライトを光らせていて、その向こう側に続いているはずの道は雨粒と闇に紛れてしまっている。水溜まりに打ち付ける雨を遮る物も無く、叩きつけられたそれらによって揺らされた水面など気にも留めず、赤色が泳いでいた。

 それは、美しい鱗を持った一匹の金魚だった。普通の金魚よりも随分と大きく、人の頭ほどはあろうかというそれは、堂々とした様子で遊泳している。そこにはいつか耳にした「恥ずかしがり屋」の姿などどこにもなくて、それでも、和泉にはそれが自分の求めていた存在であるとすぐに分かった。どうして、と問われても答えられない。ただ、そう、なのだとしか。

 コートの裾が地面についてしまわないように気をつけながら、静かにしゃがむ。両脚で傘を固定し、カメラを構えた。チャンスは一度きり。シャッターの音が一度でも響き渡ったならば、きっとばれてしまうから。隠れてしまうから。息を止め、タイミングを見計らい、そして。

 ぱしゃり。

 水の跳ねた音のようにも聞こえるそれは、確かに向こう側へと届いてしまっていたらしい。驚いたように身を震わせ、隠れてしまうその前に。

 もしかしたらもう二度と、このような機会は訪れないのかもしれない。どうして今夜は姿を見せてくれたのか、その赤色が何であったのか、和泉には何も分からない。だから判断もできずにいる。それでも一つだけ確実なのは、少なくとも今夜はもうそれが目前に姿を現すことなどないのだろう、ということだけだった。

 雨が降っているから、水が世界に満ちているから、気が緩んだのかもしれない。気が昂ぶっていたのかもしれない。魚の姿をしたそれが、姿を見せないながらも相変わらず近くを漂っていることを感じながら、和泉はゆっくりと立ち上がる。今夜はもうこれで、お開きだ。

 眩しすぎるほどの電灯に背を向けて、先ほどまで赤い金魚が泳いでいた水溜まりの上を渡る。いくら目を凝らしても、もう何も見えなかった。

 ……ぱしゃ、ぱしゃり。

 下ろした手の中で、こっそりと切った筈のシャッター。そこに、水音が重なったような気がする。もしかしたら、この音こそが和泉の好きなものであるのかもしれなかった。シャッターの音と跳ねた水の音は、随分と似通ったものであるから。