羊歯噛む雨夜路、鰐行路

落山 

 

 月にかかった黒い薄物は、目の粗い綿地のように透明の茶色い翅に似た影を、地上を照らさないほどの確かさで通していた。遠慮深いその光とも呼べない光を膚でひりひりと感じているのは、ついいましがたわたしが、恋をしかけたからかもしれず、同時に夏のあいだに失くしてしまった偽物のチェコビーズのイヤリング(左だった)を思いだし、そのひと月後にピアス・ホールを開けたからかもしれず、予感は鍵を冷たくし、降りはじめた雨に後ろ頭を湿しながら(わたしのアパートの軒は腐蝕して穴だらけのトタン板)、なんとか扉を押し開けたとき、決定的な風が部屋からあの、夜降る雨に特有の、水に浮かんだ林檎のような切ない香をともなって吹き抜け、どんな恋も思い出も予感も、一緒くたに本物にしてしまった。

「ルゥ……? ルゥ・ルカ・ルンペン?」

 

 映画を観ている、スクリーンが軟らかな膜であることも知らないままに

 不在のねこを証すのは 玄関に靴がないこと

 キッチンが冷えきっていること 上着がハンガーから消えたこと

 ルゥ・ルカ・ルンペン

 お気に入りの子豚革のブーツ 黄色いステッチの痕

 雨の夜には向かない靴で

 ルゥ・ルカ・ルンペン

 映画を観ている 泡の乾いたカプチーノが傑作と言っている

 

 開け放たれた窓、カーテンが死んだ生きもののように沈黙のうちに揺れ、揺れ、雨がサッシを空しく濡らす。泥棒はいない。わたしのねこもいなかった。いますぐにでも泣ける気がしていなかった。わたしのねことともにわたしのわたしもいなかった。と逃げたくなったが無理だった。心臓がどきどきしている。小さな鞄を玄関に放りだして、いま入ってきたばかりの扉をくぐる。音高くアパートの階段を駆け下りて、ほとんど見知らぬ国のような顔をした路地で、一瞬、立ち尽くし、(雨が降っている、そこに、電信柱がある)、途方もなく透き通った夜の息詰まるほどの雨を掻き分けて、自分がパラソルを手にしていたことにようやく気がついて、開いた。

 街燈に反射けて六角形のセピア色が列を連ねる夜に、ぱきっと乾いた音がして八本骨のパラソル、布製の膚が張り詰める。このパラソルの模様を思い出すことはできなかった。内側はありふれた生成りの天井だった。ぽたぽたと水玉がぶつかりパラソルは力なくそれらを容れた。(撥水加工がなされていないのだ、そしてそれはわたしの首を重くする)。

 死ににゆくよにあてなく歩く。

 黒々とした路面の悲しい湿りを見つめて、両脇の、電燈の点いていたりいなかったりする家々や、シャッターの下りてものさみしい商店街をぼんやりと頬で感じている。ふと軋みが、背後から近づくのに気がつき、足を止めてしまった。けれど振り向きはしないで、「ルゥ・ルカ・ルンペン……?」、そうあのねこ、機械の肢で歩くねこだったとても、小さな、子の悲鳴に似た、我慢強い軋みをあげ、それでいて優雅で誇らしげな足取りで歩く、滑稽であわれな青い、ねこの、老いぼれだった……。もの思いの背はさぞ無防備だったろう!

 ぬぅと伸びた前肢が脇に差し入れられ、つまさきが宙に浮き、とっさに縋ったパラソルはあまりにも頼りなかった。固い座面に下ろされたと思うと、わたしは前へと進みはじめた。

 

 老いぼれのねこを探して軋みをきけば夜かどわかしの手は冷えて

 

 パラソルのか細い骨の疲れのために肩にもたれなさいとささやく

 

 雨合羽の赤がとても好ましかったが恥かしいからしんとしている

 

 鰐だったわたし赤い雨合羽の鰐の三輪車に乗っていた

 

 雨夜老いぼれねこを探して他人の軋みに相乗り白木蓮

 

 視界をさえぎる赤い雨合羽の背はでこぼとしていたけれど、鰐に特有の哀愁をやはり纏って穏やかだった。三輪車はりぃりぃとかすかなうめきをあげていた。パラソルはとっくに水浸しになり、パラソルに濾された雨水でわたしは濡れねずみだった、鰐の三輪車の荷台に座った恋をしかけのねずみは雨夜、老いぼれねこのルゥ・ルカ・ルンペン(機械の肢)を求めゆく。三輪車を操るのは赤い雨合羽の巨きな鰐だった、けれどねこを探している、鰐はわたしのねこを探しにゆくのだ。ふっとパラソルが手を離れ、曇り暗い空へと飛び立っていった、わたしのパラソルの膚は、そうだ、たくさんの、色とりどりのコマドリが描かれていたんだ。

 鰐が振り返らないまま、雨合羽の裾を持ち上げた(なにせ鰐には立派な尾があるのだから)。わたしをすっぽりと包みこんだ赤い雨合羽からは、湿った土と草とビニルのにおいがして、パラソルよりもずっと堅固だった。顔だけをのぞかせて、雨滴に煙る夜の路の、俗な神秘を頬に顎にと享けながら、鰐の漕ぐ三輪車に揺られて、軋んで耳の水もふるえている、鰐のうたはとても不安定な調子で、低くかすれて酒やけみたいな声なのに、やはりもの悲しく(鰐に特有の)とても遠い日のようにいまを覚えている。

 

 ルゥ・ルカ・ルンペンは死ににゆくのさ軋みをあげる機械の肢で

 

 でなけりゃこんな雨の夜には錆びがこわくて散歩のひとつもできないはずさ

 君はもうしっていたから恋をしかけているんじゃないかい

 パラソルはコマドリ模様、飛び立ったろう、きっと殺すさルゥ・ルカ・ルンペン

 老いぼれた君のねこの、最後の仕事になったろう

 さあ雨が止んでも悲しみなさい

 小さな君の胸のために

 

 きぃと最後の軋みをあげて、鰐は三輪車を止め、わたしはいつのまにかわたしのための雨合羽を着ていた。鰐は暗い茂みに分け入り、すぐに戻ってくると、わたしの両脇に前肢を差し入れて持ちあげ、路の水溜りのうえへと下ろした。鰐はわたしに緑色の束を手渡すと、ゆっくりと三輪車にまたがり、依然雨の降りつづく夜の向こうへと漕ぎだしてゆき、やがて淡いの煙に巻きとられるように消えてしまった。わたしの手に残されたのは、たっぷりと湿った羊歯で、麻糸にゆるく束ねられていた。まると三角の奇妙な緑の好いにおいをいっぱいに吸み、ちょっと口に入れて噛みながら、水溜りを抜け出し、アパートの鉄階段をのぼる、低いヒールのパンプス。