佐倉 愛斗
雨粒が窓を叩く音に顔を上げた。書きかけの物語が表示されたノートパソコン以外の明かりは無く、今日は珍しく熱中していたのだと気付く。忘れたいことがある日ほど物語を生み出せるのは何故だろうか。真っ暗な部屋の電気をつけて、スマートフォンを手に取る。
「今日は何時に帰りますか」
それだけのメッセージを送って、凝り固まった背筋を伸ばした。閉め忘れた窓から香る冷たい雨が肺の中を澄ましてくれて、それだけで幾分忘れられそうだった。
「おかえりなさい」
「志乃、ただいま」
最寄り駅まで睦美の迎えに行く。スーツ姿の彼は、学生時代の野球部のおかげか肩のラインが美しくてジャケットがよく似合っていた。野球界注目の高校生ピッチャーだった彼も、今ではいち企業のサラリーマンだ。
畳んだままの紺色の傘を差しだす。
「いつもありがとうな」
傘を開いて歩き出す。革靴の彼とスニーカーの僕。身長差は十五センチメートル。アンバランスな僕らは高校を卒業してから同じアパートの一室で暮らしている。理由は単純。家賃と食費が浮くから。そうして暮らし始めてもう十年になる。
「いいよ、今日の予報じゃ雨が降るなんて言っていなかったもんね」
傘で見えない睦美の頬が緩んだのが僕には分かった。
水たまりに都会の明かりが乱反射して、光の世界にいるような心地になる。睦美と二人、眠ろうとする街を後にした。
「ねえ、四季桜が咲いているね」
アパート前の公園で立ち止まる。いくつかの遊具とベンチがあるだけの小さな公園には青々とした針葉樹の間になでしこ色の小さな花をつけた木が一本立っている。冬の初めに咲く変わった桜。雨粒を受け止める花弁に僕は触れた。
「普通、春に咲くものなのに」
睦美は不思議そうに呟く。
「睦美、自然界に『普通』なんてないんだよ。きっとね」
そういうものなのか、と睦美はなでしこ色の花を撫でた。一枚、花弁が手に落ちる。それは濡れていて薄く透けて見えた。普通じゃなく生きるって、どんな気持ちなのだろうか。
今朝、母親から電話があった。いつも言うことは一緒だ。
「ちゃんと食べてる? 病気してない?」
そして「結婚はまだか?」
そんな電話のあった日ほど筆が進む。物語は僕の逃げ場で隠れ蓑だから。
でも、もうそろそろ、そういうわけにもいかなくなった。
「睦美、今夜出かけてくるから夜ご飯各自でよろしく」
この日も夕暮れの見えない薄暗い曇天だった。
「うっす、どっか行くの?」
ソファーでくつろぐ睦美の顔は見られなかった。
「お見合い、行ってくる」
僕の声は震えてはいなかっただろうか。お腹の真ん中が冷えてしょうがなかった。
「お見合い?」
「僕たちもう三十路だよ? 結婚とか、そろそろ考える歳だよ。いつまでも男同士で同棲なんて―」
僕はソファーに押し倒されていた。大きな体の睦美にすっぽりと包まれて、僕に逃げ場はないと思い知らされる。雷鳴が遠くから聞こえた気がした。
「志乃はそれでいいのか?」
「なんで? いつまでもこんな生活続けてどうするの? そりゃ、家賃も食費も浮くけど、お互いもう家庭を持って暮らせるだけの収入だってあるんだよ」
「そうじゃないだろ」
睦美の声が耳をつんざく。
「志乃は俺のことただの同居人としか思ってないのか? 俺は、俺は」
―お前のことが好きなのに。
雨音が激しさを増す。今まで一言も聞いたことのない。けれど知っていた睦美の想い。知らない振りをしていた。お互い、大切なことを言わないで十年の時が過ぎていた。
ぽろぽろと、涙の雨が僕の頬に降り注ぐ。薄暗い部屋で、熱い雨が。
「睦美」
彼の頬に手を伸ばすと「もういい」と睦美は外に走り出していた。
二本の傘を持って僕は外に出た。スニーカーに水が染みて冬の風が足先を凍てつかせた。それでも僕は彼を探した。足を止めたら、もう一生彼に会えない気がして。
「むつみ!」
彼は公園の四季桜の下にいた。ずぶ濡れになったグレーのパーカーは色が濃くなり、髪から雫がぽたりと落ちている。
「なあ志乃、俺は『普通』じゃないのか?」
嗚咽混じりの声は雨音にかき消されてしまいそうだった。星の見えない夜、街灯で四季桜の水滴と睦美の瞳だけが静かに光っていた。
「そうだね。世間的には少数派だね」
僕は傘をひとつ開いて睦美に渡す。
「でもね、睦美が嫌だって言うのなら、僕はどこにも行かない。だって」
身長差十五センチメートル。僕はつま先で立って唇を合わせた。
「知らなかった?」
「いや、俺も知ってたよ」
「何も言わないで十年も一緒に居たんだね、僕たち」
「今日は傘ひとつでいいや。一緒に帰ろう、あの部屋に」
傘の中は、僕らだけの世界。傘に跳ねる雫の音が心地よくて。
四季桜の下で愛を誓う。