青居 月祈
ルシアンはこの夜、《Starry Night》に来ていた。姉のミランダとのジャンケンに負けて、昼間に買い忘れた金平糖のお使いに来たのだった。
《Starry Night》は街の金平糖専門店だ。ルシアンの幼なじみであるジャック=ガーネット一家が、金平糖の製作と販売をしている。全部手作りなので少し値段は張るが、イチゴやメロンやバニラ、お酒やコーヒーなどなど多彩な味の金平糖を手掛けている。
「はい、お待たせルシアン」
色とりどりの金平糖の壜が並び、甘い香りが漂う店の奥から、ジャックが水色の金平糖が詰まった大ぶりのカネット壜を持って出てきた。予約しておいた曹達水の金平糖だ。
「ありがとうジャック」
「いつもはミランダが買いに来るのに。珍しいよな、ルシアンがジャンケンに負けるなんて」
「まったく……ミランダに負けるなんて、今日は厄日だよ」
代金を払って、今度はマンゴーと桃の金平糖を注文しておいた。外に出ると、来たときには降っていなかった雨が、ぱらぱらぱらと降っていた。生憎、ルシアンは傘を持ってこなかった。
「あー、降ってきたかー」
「当たったね」
「当たったな」
空を見上げながら二人がそろって口にしたのは、街の《月光ラジオ放送局》の、当たらない天気予報のことだった。ジャックは「傘いるか?」と聞いてきた。それを断って、ルシアンは霧雨の中を走り出した。
すぐにやむと思っていた雨は激しさを増してきた。次第に雨粒が大きくなって、地面に水煙が立つ。これでは湿気で金平糖が傷んでしまう。ルシアンは近くの公園の東屋に駆け込んだ。椅子の下では、ここら辺でいつも集会をしている猫たちが数匹、同じように雨宿りしていた。
「しまったなぁ……傘を持って出てこればよかった」
椅子に腰かけて空を仰いでみても当分はやみそうにない。暗い夜の雨は、じめっとしていて暑かった。今夜は寝苦しい夜になりそうだ。そう思いながら金平糖の壜を開けて、二粒口に放り込む。夏の間しか作られない曹達水の金平糖は、齧るとさっぱりとした爽やかな味がした。
ベンチの下の猫たちは、こんな雨の中でも集会をするらしい。ずぶ濡れになりながらも東屋にやってくる。ルシアンの家にいる猫のカシュカシュは、雪の日は参加するのに、雨の日は参加しない。フォレストキャット種の特徴である長い毛が濡れるのが嫌らしい。
トロイメライ街の野良猫たちは、街の人たちからご飯を貰っているため、誰にでもすぐに懐く。ルシアンも例外ではないため、集会の近くに座っていても、猫たちに嫌がられることはなかった。
「ルーくん?」と呼びかける声がして顔を上げると、傘をさしたアルテが東屋の前に立っていた。
「雨宿り?」と聞かれて「うん」と答える。
どうしたことか、ルシアンはアルテを前にすると、僅かに緊張してしまう。姉のミランダが言うには、アルテのことが好きらしいが、自分ではそういう感じかわからない。
彼女は傘を閉じると、ルシアンの隣に座った。抱えていた雑貨屋《うさぎ堂》の紙袋を大事そうにハンカチで拭ってから、中身を確認した。アルテは綺麗なガラス細工のランプを持っていた。ガラスの中で、ゆらゆらと小さな炎が揺れている。街灯はあるものの、足元が暗いトロイメライ街では、ランプの需要が高い。
「アルテはこんな夜に買い物?」
「ルピアちゃんとショッピングしてたの」
ルピアはこの街で星空観察をしている夜行性の少女だ。基本、夕方頃から起き出して、明け方まで星を観測したり、夜にやっているお店を回ったりしている。トロイメライ街には彼女以外にも夜行性の人がいるため、昼間ほどではないが、夜も月明かりの邪魔にならないくらいに明るかったりする。
アルテが獲り出したのは、リスの刺繍が入ったもこもこのブローチだった。《うさぎ堂》に並んでいるアクセサリーは、店主の手作りらしい。不器用なルシアンやミランダには到底まねできないくらいに可愛らしいアクセサリーは、街の少女たちに人気だった。アルテはブローチを夏用の薄い肩掛けにさっそく付けていた。
「どうかな?」
「似合うよ」
「水色と桃色があって、桃色選んじゃったけど……ルピアちゃんも桃色がいいって言ってくれて……」
「淡い色同士だし、アクセントになっていていいと思うよ」
アルテは肩をすくめて恥ずかしそうに俯いた。彼女は水色を好んでつけている。今日の傘も空色をしているし、肩掛けも水色をしている。いつも着ているエプロンドレスもアリスブルーの色合いで、綺麗な金色の髪に似合っている。
「そういえば、ほんとに降ってきたね」
「あぁ。《月光ラジオ放送局》の天気予報は大概外れるんだけどなぁ」
《月光ラジオ放送局》は、街でよく聞かれている放送局の名前。気まぐれに本の朗読をしたり、今夜の星座の解説をしたり、音楽を流したりと、のんびりしたラジオ番組だ。誰がやっているのかわからないが、その天気予報は外ればっかり。
「それ、《Starry Night》の金平糖ね」
「そう。曹達水味だ。食べる?」
何気ないやり取りをしていると、雨は一層強くなってから、すぐに勢いがなくなった。それでも弱くなった雨を見て、アルテが腰を上げた。空色の傘を ぱんっ と開いて外に出る。
「入ってく?」
ルシアンは少し考えてから、「うん」と頷いた。
***
傘の中で二人並んで歩くと、相手の歩幅に合わせるからか、普段歩くよりもゆっくりになった。ランプと傘を持つルシアンは、このまま送ってもらうのは悪いと、アルテを家へ誘った。実際、音売りとして街の外での仕事が多いミランダは、ここ最近アルテと会っていないようで「アルテちゃん不足―!」と喚いていた。
「僕の家でお茶でもしていく?」
「いいのかしら?」
金平糖と雑貨屋の袋を腕に抱えたアルテがルシアンを見上げる。
「大丈夫、傘入れてくれたお礼。夜はまた送っていくよ。ミランダがね、会いたがってるんだ」
姉のミランダはアルテと仲がいい。良過ぎるくらいだ。五年くらい前から「アルテちゃんは私の未来の義妹なの!」が口癖になっている。
「じゃぁ、お邪魔するね」
そのあと、話題がなくなってしまうと、二人はすっかり沈黙してしまった。雨粒が傘の上で踊る音だけが、傘の中に反響して聞こえた。
空色の傘はアルテには大きくても、二人はいれば当然狭くなる。肩がくっつきそうになるほどルシアンとアルテの距離は近い。服の裾が擦れるたびに、ルシアンはどきどきしてしまう。
「また、新しい洋墨を作ってくれる?」
「いいよ。どんな色がいいの?」
アルテは街の洋墨屋《Albireo》の一人娘で、数少ない洋墨の調合士だ。彼女が作る洋墨は濃淡が美しいと評判で、ルシアンもオリジナルの洋墨を何個か作ってもらっている。
「夜空色ってできる? 単なるミッドナイトブルーじゃなくて、星空みたいな色」
「星空ね」と呟いてから「お父さんにアドバイスもらえば、たぶん大丈夫だと思う」
「じゃぁ、よろしく。代金は高くついてもいいから」
「あんまり期待しないで待ってて」
アルテは照れながらルシアンから顔をそらした。空色の目がきょろきょろと泳いでいる。
「そんなことない。こないだ作ってくれた夕焼け色は、とても素敵な色だった。おかげでいい話が書けたよ。今度読ませてあげる」
雨音が ぱらぱらぱら ぱらら ぱらら と軽快に踊る。話下手なルシアンと、物静かなアルテは、どうしても沈黙になってしまう。おしゃべりなミランダがいれば、何とか話題を探すことができるが、二人っきりだとお互いに黙ってしまうのだ。
「ぁ、」
アルテが小さく声を出した。
「なに?」
耳を傾けると、アルテはさらに小さな声で「ありがとう」とルシアンの耳に囁いた。その頬は薔薇のつぼみみたいに染まっていた。
「僕は、アルテが作る洋墨の色好きだから。実際、洋墨の色で書く作品の内容とか考えたりするから」
ルシアンは〝物語売り〟という職業をしている。その人が望む物語を書くという、物好きにしかできない仕事だ。もともと文章を書くことを趣味にしていて、普段から作品を書いている。その作品の雰囲気を洋墨の色で決めるのだ。
「私も、ルシアンが書くお話、好きだなぁ」
耳元で聞こえる、囁くようなアルテのソプラノの声がやけに透き通っていて綺麗に聞こえる。途端に顔が熱くなった。頬が熱を持っているのがわかる。
「アルテの洋墨があるから書けるんだ」
林檎みたく赤くなっているだろう頬を抑える。この傘をなくしてしまいたいとさえ思った。雨に当たって熱を持った体を冷やしたい。
雨降りの外出は好きじゃない。けど、こんな雨降りなら嫌いじゃない。はっきりしないのは、頭がぼうっとしているから。隣に、アルテがいるから。
顔中の熱さで、ルシアンの意識がなくなったのは、また沈黙が続いた数分後。
***
いつか、物書きの師匠に教えてもらったことがある。
人間の声が一番綺麗に聞こえるのは雨天時の傘の中。人間の声が雨粒に反射して傘の中で共鳴するため、特に雨量がやや多く、囁くような声の時が最も美しく聞こえるのだ、と。
***
目を覚ますと、ルシアンは自室のベッドに横になっていた。額には濡れたタオルがぺったりと貼り付けられている。
「どうなったんだっけ?」
状況を確認しようと頭に手をやる。アルテと歩いて帰ってきたことまでは覚えている。それからがよく覚えてない。
「ルシアン起きたー? 気分はどーだいー?」
ミランダが元気よく入室してきた。トレイを持って手が塞がっているからとはいえ、足で扉を開けるのはやめてほしい。行儀悪い。けれど今は叱る気にも大声を出す気にもなれなかった。
「あぁ……なんだ。ミランダか」
「アルテちゃんじゃなくて残念でしたー」
皮肉っぽく言いながら、持ってきた着替えの寝巻とタオル、それからミルク粥をテーブルに置いた。
「はい、ごはんここ置いておくからね。汗はかいてないようだけど、ちゃんと体を拭いてから着替えなさいよー」
「はーい」
「ルシアンどうなったか覚えてる? 家の外で倒れたのをアルテちゃんが引っ張ってきてくれたのよ」
アルテが? と尋ねると、ミランダは今度謝罪もかねて、デートしてきなさいよ、と念を押した。何度言ったらミランダはわかるんだろうと心の中で呟きながら「僕らは恋人じゃないよ」と言うと、ミランダはタオルでルシアンの顔を叩いた。
「でも、片想いしてるんでしょ?」
「片想いなんてしてないってば」
「じゃあなんで赤くなってるのよ?」
明らかに熱を持っている頬をつねられる。答えられないでいると、ミランダは「ほーら、答えられないんだから」
そんなんじゃないって。そう言うと、とうとう痺れを切らしたミランダが怒鳴りながら両方の頬を思い切りつねった。
「コラ、ルシアン! いい加減アルテちゃんのことが好きだって認めなさい!」
「いだいっ! 痛いってばミランダ!」
ミランダが来たときと同じように元気よく退室していったあと、ルシアンは枕に顔をうずめた。人を好きになることを自分自身がよくわかってない。アルテのことが好きと認めてしまっていいんだろうか、とか、考えてしまう。アルテといると極度に緊張してしまう。けれど、会話と会話の間にある沈黙がとても気まずいんだけれど、それ以上にとても心地いい。
その夜、ルシアンはひと眠りした後に起き出した。枕元に、猫のカシュカシュが丸くなって眠っていた。夏毛でもふわふわした体を撫でると心が落ち着いてくる。窓の外を見ると、まだ雨はぱらぱらと降り続いていた。テーブルの抽斗から便箋と洋墨を取り出す。ガラスペンにインクを付け、試書き用の紙で洋墨の出を確認してから、星が散りばめられた夜空柄の便箋にペン先を走らせた。
***
拝啓 ブルームーン様。
ひまわりが日に日に背を伸ばすこの頃、夏の訪れを感じる季節になりましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか。貴方様のことですから、きっと何処かの地で物語を収集することに励んでいるのでしょう。
師匠、僕は難題に直面しています。それは〝人を好きになる〟ということです。自分ではよくわからないのです。
特定の人と一緒にいたい、そう思うことが好きになるということでしょうか。ミランダは『それが恋ってやつなんだ』と言っていますが、本当にそうでしょうか。
またお帰りになった際に、教えていただけないでしょうか。
本格的な夏を迎えまし。どうかお体を大切になさってください。
敬具
ルシアン=ストーリア
***
書いた便箋を封筒に入れ、イニシャルの印で蝋封する。にゃーお、とカシュカシュが起き出して膝の上に乗ってくる。
「どうしたんだい、カシュカシュ」
にゃーお、とだけ返事をしてカシュカシュは膝の上で丸くなる。呑気でいいものだ。顔を撫でると、気持ちよさそうに目を細めて、もっと、と手を叩いてくる。しばらくカシュカシュの相手をしてから、金魚の涼しげな便箋を出してきた。アルテ宛に、今度の休みに街の水族館に誘う内容で手紙を書いて、封筒に入れた。その間も、鼓動がはっきりとわかるくらいに音を立てている。
「ねぇカシュカシュ。アルテのことを考えると、胸がドキドキするんだ。ドキドキしすぎて、少しだけ苦しい。これが恋なのかな」
何気なくそう問いかけると、カシュカシュはつんとした表情でみゃあとだけ鳴いてベッドに戻っていった。「知らないわ、自分で確認しなさい」そう言われているような気がした。
Fin.