國白
なにもかも、思うようにいかないことだらけだ。
ベッドに横たえたままの体を窓のほうに傾ける。こうしていれば、何も気にしなくて済む。
外はあいにくの雨で、残念なくらい私は疲れていて、誰かを想う事すら、もうどうでもよくなってしまっていた。いつもなら美しく煌めく光の波や、他愛のない出来事ですぐにでも気分転換をすることはできるのに。
数か月に一度来るか来ないかの、そんな、波。
溺れないように、懸命に泳いでいた自分が馬鹿みたいに思えてくる。
ぼうっと、地上よりも空に近いと錯覚しそうなこの場所で、流れる水滴をただ見つめる。触ればきっと冷たいそれに、触ることすら億劫で。全てに対して自分を鈍感にしていく。
ろくに電気すら付けないまま、ただただ自分の中にだけ鋭敏になっていく。
うんざりして、もう生きる気力さえ、なくなってしまいそうで。
静かに、白いシーツの波に埋もれた。
微かな振動音で目が覚める。
少し指を動かすと、外気に冷えた震える携帯にあたった。寝起きには少々つらい、発光型の薄い箱は、律儀に私に「本日の予定」をリマインドしてくれたらしい。
“17:30 開場 18:00 開始”
場所はとある小さな音楽室。聞けばそこにはグランドピアノ(とても良いと評判の)があるのみで、まるでピアノのための特別室だそうだ。
疲れた時に耳に入ってきたFMラジオの音楽が、とても心地よい声で。それゆえに少し、夢うつつで。そのまま購入してしまったチケットだった。
忘れたままでいられたら、よかったのかもしれない。
そんなことを思いつつ、ベッドから降りてシャワーを浴びる。あたたかい水滴は、まるで先ほどまで見ていた水滴とは違うような、どこかよそよそしいものに思えた。
地下鉄から降りて、濡れずにゆける時代とは、なんて便利なものだろうか。備考に書いてあった”お好きなことしていて構いません”という文言につられて持ってきた小説を読みながら着いたこの駅は、とても新しくて。本が濡れる心配なんて、まるでしなくていいような。
まだ時間があることは知っていたから、少し歩いて会場に近い喫茶店へ入る。窓際に席を選んで、適当にあたたかい飲み物を頼む。窓の外はまだ激しく雨が降っていた。もうすっかり暗くなってしまった空に、ぼやけて映るショーウィンドウの光に、なにかを探す。私の心は何処へいってしまったのか。
冷たくなった指先に、暖かさが宿る。頼んだのはこの店自慢の紅茶。
喫茶店で紅茶が看板を飾っているのが珍しくって、ついつい頼んでしまった。ひとくち飲めば、その暖かさと、立ち上る優しい香気に心が落ち着いていく。店内に流れる、ゆったりとしたジャズも相俟って、居心地のよい空間を生み出していた。
手元にあった紙ナプキンを一枚、引き出す。鞄からスケジュール帳用に使用していた、伸縮式のボールペンを取り出す。無駄な装飾がなく、書き味も素晴らしい、シンプルなこのペンは、いつか美しい文房具店で出会ったものだった。ふと、そんなことを思い出して、口元をゆるめる。
折りたたんであるその薄い紙を解いて、もう一度折り直す。三等分にして、少し厚くなった紙に、ボールペンのペン先を、置いて。
つるり。
紙の上を滑るペン先が、美しく弧を描く。
無心でぐるぐるやっていると、先ほどにも覚えのある振動が伝わる。どうやら開場十分前になったらしい。
静かに席を立つ―空になった紅茶と、悪戯な薄い紙を残して。
少しだけ、外の空気に触れたくなって。
駅の階段を上がると、だいぶ小雨になった雨が降っていた。
さらさらと耳をくすぐられるのが、肌に触れるひんやりとした空気が、なんとなく心地のよいものに思えた。
いざそこへ辿り着いてみると、何の変哲もない、今風の透明なビルが建っていた。本当にここに地下があって、そこに素敵な黒いピアノが存在するのかと、訝しく思うほどに。
時間になって、誘導がされる。パラパラと集まっていた人たちがそれとなく係員についていく。傍から見れば異様なそれは、無事営業時間後に起きたものだから、見られることはなかったのだけれど。
ついていった先には地下へと続く階段があって、いつもは留められているのであろうチェーンは、隅につながれていた。
案内された先は、白一色の部屋だった。
上から下がっている間接照明に、柔らかな光を放つスタンドライト。そしてなにより、美しの黒いピアノ。
異彩を放つその黒は、滑らかで、どっしりとしていて。この小さな音楽室の主であるという事を、控えめに、それでいてはっきりと主張していた。
少しだけ、部屋の照明が落とされて、ピアノとその席に、明かりが絞られる。
そこから簡単な挨拶がなされて、奏者が静かに席につく。
始まりは、とても自然だった。
耳障りのよい、穏やかな声音と、優しく弾かれる鍵盤が鳴らす調べ。
いつの間にか手元の小説への集中はどこかにいってしまった。
目を閉じて、すう、と呼吸を意識する。―その音さえも、自分の中へ入れてしまえるように。
小さな音楽室のコンサートも閉幕し、いまだ熱に充てられたまま、表へ出る。雨はとっくに止んでいて、夜の冷たさは私にちょうどよかった。
少し何か飲もうと、店を探す。少し遅い時間の解散だったからか、明かりがついているのは数軒だけだった。そのうちの一軒を選んで立ち寄る。適当にメニューから頼んで、息を吐く。
鞄の中の本を見て、先ほどの熱を、思い出す。
―あんなところで本なんて読んだら、それこそきっと、溺れてしまう。
そんな、錯覚を起こさせた。
白と黒が交差して、一体になってく。ただそれは混じり合うことはしなくて。
少しずつ、そこに惹き込まれていった。
小刻みに震える指先が、確実に紡いでいく一音一音は、微かに激情に駆られていた。
ひきつる呼吸さえも愛おしい。
発声におけるいち音は、つまり、マイクを通しているだけで、ということは、やっぱり、美しくって。
納得をしてしまうから、弾くことをやめないでほしい。納得なんてしたくないから、弾いていて欲しい。
縋りつくかのよう願えば、留まることを知らない旋律が導いて。
“落ちていく星のかけらはきっと拾いきれなかった”
波紋を広げるような、その声は冷たくて綺麗で美しくて、どうしようもなくさせた。
でも確かだったのは、その部屋に熱が宿っていたということ。
人の声が混ざるのが良い心地で。
思わず恍惚に身が震えた。あれを感動と言わずして、なにをもって感動とするのだろう、というくらいの、今もなお残る、美しい、灯。
地上12階から見下ろす景色は、夜の水滴で守られて、美しく光の反射を見せていた。
シャワーを浴びて今日の余韻を流すのは、あまりにも残酷な気がしてしまう。だから。今日はこうしてまた怠惰な白いシーツに沈むのだ。けれど、ひとつ違う事。
私を、きっと静かな灯が、まだこの身を温めているということ。